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History of ImariTones
1990年代半ば、 愛知県のとある地方都市にて、 高校生だったナカミネはバンド活動をしながら 100曲以上の楽曲を書く。
199x年、 音楽でプロを目指すことを どちらかというと否定していた高校生ナカミネ、 エリートコースを進みまっとうな大人に なる予定だったが、 imari嬢との出会いによって、 エリートコースから否応なく外れる。
1998年 心身を病み、音楽活動も大学生活も まともにできなかったナカミネ、 コンピュータを使った音楽制作に触れ、 一人で音源制作を始める。 自宅スタジオをStudio Pelと名づける。
1998年夏、 ナカミネは初めての自主レコーディング作品を制作。 現在、この作品には"Through The Garden Of Gods"という名前がつけられている。 録音や演奏の技術に未熟な部分は多いが、 当時の精神的な状況の暗さから、 インディーズ的な刹那的な雰囲気に満ちた作品になる。
1999年春、 "Prototypes"と名付けられた自主作品を制作する。 独自の個性が発揮された秀作になる。 この頃、Imari Tonesという奇妙なバンド名が ナカミネの頭の中に突如浮かぶ。
1999年夏、 ナカミネは、 渾身の力を込めた自主作品、 宅録ロックの金字塔と自ら認める快作 "Kodomo Metal"を制作する。 ナカミネの持つ個性や特異な音楽性が発揮された作品であり、 イマリトーンズ自主作品の代表作のひとつとなる。
2001年、 この頃ナカミネは、 プロミュージシャンを目指すのとはまた違った生き方を求め、 生涯を放浪のうちに、芸術家として生き、芸術家として死ぬことを決意する。 この年、ナカミネは、 "Entering The New World"と名付けられた自主作品を制作する。 ナカミネはその理想の中にある新しい価値観を持った世界 "Neworld"の扉を開くという意図をもって、制作に臨んだ。
2002年春 ナカミネ、象牙の塔StudioPelを出て上京。
2002年9月頃 ナカミネ、ギタリスト、ヒッチーと出会い意気投合する。
2002年10月、 意外にも、Imari Tonesの名前を使って都内で行った初めてのライヴは、 四谷天窓で行ったアコースティック形式のものだった。 ナカミネ(Vo,AG)、ヒッチー(EG)、ロミィ嬢(Cho,Perc)の3人編成。
2002年12月、 ナカミネ、個人で音楽事務所を主宰するプロドラマー山田氏の主催で、 御徒町のSahaというライヴハウスにて、 たった一人でオケをバックにライヴ演奏をする。 ナカミネはVo,Gを演奏。
2003年2月、 ナカミネは、妹であるミヅキのライヴにアコースティックギターで参加。 場所は四谷Live Gate Tokyo。 妹ミヅキは、音大を出たのち、バーなどで歌い、一定のファンを獲得していた。
2003年3月 ナカミネ、新宿デモテープ評議会なるイベントにて、 サエキけんぞう氏と東芝EMIディレクター加茂氏の両名に、 楽曲「躁」を、「図抜けている」と絶賛される。 でもその後別にいいことはなかった。
2003年5月、 ナカミネ(Vo,G)は、バイト先の友人Kuriちゃんをにわかドラマーに仕立てあげ、 また、この頃上京していた旧知の友人、 鬱病の女流詩人ことヲイちゃんをベーシストとして迎え、 3人編成のバンドとして御徒町Sahaにてライヴ演奏をする。 にわか仕立てのバンドであったため、完全とは言いがたい演奏。 ドラマーKuriちゃんはこの一回きりの起用となる。
2003年8月、 ナカミネは、ギタリスト、ヒッチーの誘いにより、 埼玉県某所に一軒家を借りて、 バンドメンバー皆による音楽中心の共同生活をスタートさせる。 この一軒家"House Juku-Shiki"の3階はスタジオになっており、 ナカミネはここをStudio Juku-Shikiと名付けた。 同時期に、三重県出身のドラマーはらっちと知り合い、 ナカミネ、ヒッチー、ヲイちゃん、はらっち、 の4人編成でのバンドを計画する。
2003年9月、 御徒町Sahaにてナカミネ、ヒッチー、ヲイの3人編成でライヴ演奏を行う。
2003年9月、 ナカミネは、Studio Juku-Shikiにて、 2001年以来の録音となる、"前途洋々"、"今君に会いたいよ" の2曲を一人で自主制作。 バンド編成スタートの前の、ソロワークの締めくくり作業であった。 この2曲は、99年春の「Prototypes」に追加収録されている。
2003年10月、 三重県からはるばる、はらっちがHouse Juku-Shikiに引っ越してくる。 House Juku-Shikiには、レギュラー住人のナカミネ、ヒッチー、はらっちの他、 友人達が常時居座り非常ににぎやかな生活となる。 世の中から、どこかはずれた若者たちによる、 不思議で奇妙な共同生活。 4人編成のバンドとしてスタート。
2003年10月後半〜11月前半、 バンドのメンバーにはっぱをかけられ、 ナカミネは、約1ヶ月で55曲を作曲。
2003年11月、 ナカミネ(Vo)、ヒッチー(G)、ヲイ(B)、はらっち(Dr)、 の4人編成で、本格的なバンド活動のスタートとなるライヴ演奏を、 御徒町Sahaにて行う。 悪くない演奏であったが、メンバーは、ロックバンドの編成向きでないハコである 御徒町Sahaでの演奏に飽きてきて、 これ以後都内の主要ライヴハウスに進出を図ることとなる。
2004年1月、 ナカミネ(Vo)、ヒッチー(G)、ヲイちゃん(B)、はらっち(Dr)の4人編成で、 池袋手刀にてライヴを行う。 このライヴを最後にヒッチーが早くもバンドから離脱。 天才ヒッチー、 自身にストイック過ぎたゆえの選択だったと思われる。 とはいえ特にケンカしたわけではなく、 House Juku-Shikiでの奇妙な共同生活は続いていた。
2004年2月、 ナカミネ(Vo,G)、ヲイちゃん(B)、はらっち(Dr)、 の3人編成となり、2度ほど小規模なライヴに参加、 ナカミネのギターヴォーカルも落ち着かず、 また、ヲイちゃんの鬱状態や精神的な不安定さがバンド活動の障害になってくる。
2004年2月、 池袋手刀にて ナカミネ(Vo,G)、ヲイちゃん(B)、はらっち(Dr)、 の3人編成にて演奏。 奇跡的に比較的出来の良い演奏となる。 風変わりでデリケートではあったが優れた素養を持つヲイちゃんであったが、 このライヴを最後に心身の不調によりバンド活動を離れざるを得なくなる。
2004年3月、 ヲイの後任のベーシストを探す中、奇跡的にベーシスト、みねっち、と出会う。 みねっち、は、ナカミネと同じ年で、 音楽の趣味も含め様々な点でナカミネと波長の合う稀有な人物だった。 ここに、ナカミネ、はらっち、みねっち、の、黄金のトライアングルが完成し、 熱い2004年度が始まることとなる。 また、時を同じくして、ナカミネはヴォーカリストの募集も行う。 3月〜4月にかけて述べ15人のヴォーカリストと面接を行うも、 結局採用となるヴォーカリストには出会えず、ナカミネはやはり自分で歌うことを選択する。
2004年3月、 原宿RUIDOにて、 ナカミネ(Vo,G)、みねっち(B)、はらっち(Dr)、 の3人編成にてライヴ演奏を行う。 出演したイベントは中途半端であったが、 演奏の手応えは良く、 黄金の三角形、理想のスリーピースの予感を得る。 本番前に、桜が満開の代々木公園にて花見。 桃園の誓いよろしく、義兄弟の契りを交わす。
2004年4月、 大塚CAVEにてライヴ。 身内ノリで妙に盛り上がる。
2004年5月、 池袋手刀にてライヴ。 少しはまともな演奏をする。 下北沢GARAGEにて昼間のライヴというものをやってみる。 冷静に考えると、 ハードロック系のバンドが下北沢に進出するのは稀であり、 少し無謀といえるが、 これがこの時期のImari Tonesの不器用かつ志の高い 無茶な活動を象徴している。
2004年6月、 下北沢ERAにて昼間のライヴというものをやってみる。 下北沢のレコード屋さんの企画ライヴにお呼ばれして 新宿Red Clothにてライヴ。 だんだん音にパワーが宿ってくる。
2004年6月、 バンドとしての初めての音源を制作。 録音はドラム以外はStudio Juku-Shikiにて行う。 5曲を録音し、EP「虚数少年2」と銘打って、 CD-Rの形でライヴ会場などで配布した。 内容は、バンドの勢いを理想的に伝える充実したものになる。
2004年7月、 この頃、活動方針を模索していたヒッチーがHouse Juku-Shikiから離脱、引越。
2004年7月、 池袋手刀にてライヴ。 アンサンブルはかなり固まってくる。 下北沢GARAGEにてライヴ。 3人とも夏風邪という奇跡的にひどい内容。
2004年9月、 埼玉県の某事務所の企画ライヴに初参加で、 新宿Head Powerにて演奏。 池袋手刀にてライヴ。 演奏内容が充実してくる。
2004年10月、 相変わらず難しい状況の下北沢GARAGEにてライヴ。 よく空き缶が飛んでこなかったものだ。
2004年11月、 池袋手刀にて、ナカミネの妹ミヅキをキーボード/コーラスに加え、 試験的に4人編成でライヴ演奏を行う。 4人は完璧なポップ戦闘集団となり、 充実した演奏となる。 そのアクの強さゆえ、必ずしも娯楽性は高くなかったが、 演奏のレベルは充実していた。
2004年11月、 埼玉県の某事務所の企画ライヴにて、 神楽坂DIMENSIONにてライヴ。 総じて結論づけるなら、 この時期のImari Tonesの演奏は、 自身の内面を掘り下げるストイックな苦悩の演奏であり、 決して、観客が親しみやすいものではなかった。
2004年11月、 高田馬場の某レーベルさんの企画ライヴに参加。 新宿Club Doctorにて演奏。 非常にヴォルテージの高い演奏をする。
2004年12月、 埼玉県の某事務所の企画ライヴにて、 渋谷Gig Anticにてライヴ。
2004年12月、 Woodscock、飛蹴の2バンドが主催する、 チャリティーライヴイベント、Heart Rock Vol.1に参加し、 みねっちの参加するもうひとつのバンドであり、 Imariにとっては兄弟バンドといえる盟友Poor Midnight Grandmaと共に、 原宿REKIOにて演奏する。 企画そのものの盛り上がりにも助けられ、 初のアンコールをもらってしまうなど、 2004年の集大成といえる充実の演奏となる。
2004年12月、 池袋手刀にてライヴ。
2004年12月、 ナカミネ、2004年のライヴを記録した、ライヴアルバムを自主制作する。 これは、各ライヴハウスで普通に記録に使われるMDの内容をもとに、 マスタリング処理を施しただけのもので、 メジャーアーティストの"作られた"ライヴアルバムとは一線を画した、 演奏の事実が生々しく記録された内容となる。 タイトルも、そのまま、"2004年の演奏活動の記録"とした。
2005年1月、 盟友Poor Midnight Grandmaと共に、 高田馬場の某レーベルの企画ライヴに参加、 新宿Club Doctorにて演奏。
2005年1月、 下北沢GARAGEにてライヴ、 演奏は上々だが、 難しい関係と状況であったガレージの壁を、 いまだ破れず。
2005年2月、 この頃、はらっちが、並行して参加していたバンド"音信+"に 集中するため、バンドからの離脱を表明。 ナカミネは前向きにバンド活動に対する視点を変えていき、 もともとイマリトーンズは一人で始めたものであって、 決まった形にとらわれないものであるから、 バンドとしての形が無かったとしても活動はできると言い放つ。 ナカミネはバンドの在り方について考え、 ライヴ活動の意義に疑問を持っていたこともあり、 当面は他メンバーを探すことをせずに、 これを好機として今しかできない録音制作に向かうことを決意。 ナカミネははらっちに「いつでも戻って来いよ」と伝え、 結果的に非常に平和的な離脱劇となる。
2005年2月14日、 秋葉原GOODMANにてバレンタインデーライヴ。 またも3人とも風邪という悪条件となるが、 エンターテイメント性にあふれた元気のいいさわやかな演奏となる。
2005年1月末〜3月半ば、 Imari Tonesは、アルバムのレコーディングを行う。 前年6月に録音した5曲に加え、 新たに7曲を録音し、 12曲入りのアルバムを自主制作する。 録音は、ドラム以外はStudio Juku-Shikiにて行われる。 ベーシックなバンドサウンドが映えた前年制作の5曲に対し、 この時新たに録音された7曲は、ポップな楽曲の広がりと、 何よりもさわやかな楽しさに満ちたヴォーカルが映える仕上がりとなる。 「愛と笑い」に満ちた、イマリトーンズらしい作品。 このアルバムには、"光のヒーロー"というタイトルが付けられる。 もっとも親しみやすく、ゴキゲンにロックしている、 間違いなくImari Tonesの代表作のひとつ。
2005年3月、 当面のしめくくりのライヴを前にして、 この時期になってバンドはアンサンブルの完成を見る。 なにより、一年の活動、修行を通じて、 メンバー3人は、成長し、精神的により高いゴールに達していた。 また、ナカミネはバンド活動や音楽活動に対するヴィジョンを日々発見し、 次の活動へのヴィジョンを研ぎ澄ましていく。 2月頃からナカミネはドラムの練習を始める。
2005年3月、 はらっち、House Juku-Shikiから引越し。 一時は何人いるのかわからないほどにぎやかだったHouse Juku-Shikiに、 静けさが訪れる。
2005年3月30日、 当面のライヴ活動のしめくくりとなるライヴが、 古巣、御徒町Sahaにて行われる。 完成したバンドサウンドとそして、 3人の音と精神のコンビネーションをきちんと披露する、 しめくくりにふさわしい充実の演奏となる。 質のいい客層にも恵まれ、非常に幸福な演奏であったといえる。 この日、完成したばかりのアルバム"光のヒーロー"の テスト盤が、来場した観客に配布される。 また、この日のリハーサル前には、埼玉県某所のとあるイタリアンレストランにて、 "光のヒーロー"のジャケット撮影が行われた。
2005年4月15日、 ナカミネは、ドラマーが休業中の、 盟友、Poor Midnight Grandmaのライヴにヘルプドラマーとして参加、 渋谷Gig Anticにて演奏を行う。
2005年5月7日、 ナカミネは、ドラマーが休業中の、 盟友、Poor Midnight Grandmaのライヴにヘルプドラマーとして参加、 渋谷Club Asia Pにて演奏を行う。
2005年5月15日、 ナカミネは、 盟友、Poor Midnight Grandmaの 池袋手刀にて行われた自主企画イベント、 「ロックでぶっとばせ」のライヴに、ヘルプドラマーとして参加、 イベントも盛況でおおいに盛り上がる。
2005年6月1日、 ナカミネは、盟友Poor Midnight Grandmaの、 新宿MARZにて行われたライヴに ヘルプドラマーとして参加。 PMGのサポートドラマーとしての全日程を終了する。
2005年6月 ナカミネは、ImariTonesの自主制作シリーズを完成させるべく、 4枚のアルバム制作を企画し、 それを2ラウンドに分けて2005年中に完成させる計画を立て、 ドラムも自身でプレイし、 たった一人で制作にとりかかる。
2005年9月 計画した4枚のうちの、前半の2枚が完成。 「異能レース」(Heterogeneous Species) 「無責任なメシア」(Reluctant Savior) と名付けられる。 これらの作品には、はらっちと、PMGのスギペが、コーラスで参加。 制作と同時に、2001年の作品である「Entering The New World」から、 「Entering The New World」、「Changes!!」、「春風に乗って君と飛ぼう」 の3曲をリマスター。
2005年10月、 現代社会、とりわけ日本における ロックンロールのリアリティについて考えていたナカミネは、 この頃、政治家になろうか、あるいはアメリカに移住しようかなどと考える。 またこの時期、盟友であり大先輩であるRaphy氏を通じて、 少年時代からの憧れの人物であるTak Yonemochi氏と出会う。
2005年11月 この頃、ナカミネは、自主制作のヴォーカルレコーディングを乗り切るために、 自分のヴォーカルの限界を超えるべく、 発声の方法を少しずつ変えていく。 以降、新しい発声を模索し、 以後1年間、新しい声を探して悩むこととなる。
2005年12月 計画した4枚のうちの、後半の2枚が完成。 「Color Of Hers」、「fireworks」と名付けられる。 はらっちと、PMGスギペが今回もコーラスで参加。 これにより、ImariTonesの、10年間の旅路を記録した、 10枚の自主制作アルバムが完成。 ImariTonesという音楽芸術が、ひとつの完成を見ることとなる。 自分の手で、純粋に芸術と向き合った10枚の自主制作作品こそが、 本当のImari Tonesの姿であり、 いちばんに伝えたかったすべての記録である。
2006年1月 ナカミネがバンド活動再開に向けて 水面下で動くなか、 ベーシストみねっち、 家庭の事情により、なにげなく戦線離脱。 決して笑顔でのハッピーな別れであった。 最高の飲み友達であることに変わりはなし。
2006年2月 そうこうしているうちに、 ImariTones、 ナカミネの少年時代からの憧れの人物の一人である、 Tak Yonemochi氏(Air Pavilion)に、プロデュースしていただくことになる。 急転直下、ナカミネは、みねっちに勝るとも劣らぬ、 いや、ことスタジオワークにおいては、みねっちを上回る力量を持つ 有能なジャズベーシスト、ババリュウヘイをゲットする。 また、参加していたバンド「音信+」の活動停止により、 暇になっていたはらっちが、一年前の予告どおり、あっさり戻ってくる。 ナカミネ(G,Vo)、ハラ(Dr)、ババ(B)、のトリオ編成で、 世界を照準に本格的なレコーディングに臨むこととなる。
2006年4月 この時期、はらっち、大正琴職人になる。 ナカミネと同居し、離別も再会も経験し、苦楽を共にしてきた彼にとっても、 おそらくはこれまでのバンド活動の答えを得るため、 彼はイマリトーンズに戻ってきたであろうと考えられる。 はらっち、恋人の待つ地元名古屋に転居。 家出同然で上京してきた彼であったが、 ひととおりのライヴ活動で、様々な経験をし、学び、 人間的に成熟したことによって、 イマリ・トーンズの活動も非常に大人なスタイルになっていく。
2006年2月〜6月 米持氏の監修の下、 水面下で、スタジオワーク、レコーディングが少しずつ進む。 スタジオワークのみで、退屈であるが、 風まかせでのんびりと運営する。 米持氏と出会ったことにより、 この頃からナカミネは、英語で歌うようになる。
2006年7月 ドイツに行く話が浮上して身辺が慌しくなる。
2006年9月〜10月 ImariTones、ナカミネ、ハラ、ババの3人は、 米持孝秋氏とともに、ドイツへ赴き、 AngraやEdguy、Rhapsodyなどを手がけているヘヴィメタル界の売れっ子プロデューサー、 サシャ・ピート氏のもとで、数曲をレコーディング。 素晴らしい旅路と、世界レベルのサウンド、 そして大きなヴィジョンを授与される。 米持孝秋氏のソロアルバムのレコーディングにも立ち会い、 また、ナカミネは米持氏のソロ・レコーディングでも1曲ギターを弾いている。
2006年8月吉日 ナカミネ、 imari tonesの、バンド名の由来でもある、 そしてナカミネに道を踏み外させた張本人である、 イマリ嬢と、晴れて結婚。 プロポーズは見てのとおり10年前に済ませていた。
2006年10月8日 おなじみといえる、良い記憶しかないハコ、 御徒町Sahaにて、 ImariTones、初の企画ライヴと言える、 プライベートライヴパーティーをぶちあげる。 ドイツ帰国報告などを兼ねた、節目のイベントで、 敬愛する先輩であるRaphy氏、未藍千紗さんと共演。 久々のライヴながらも出来の良い演奏を披露する。 J-GEORGE氏とのギターバトルや、 米持孝秋氏をお迎えしての「即席Air Pavilion」セッションも敢行。
2006年12月〜2月 マスタリングや、営業や、テキサスに行く話などで、 なんだかんだと時間が過ぎる。
2007年3月 ナカミネは、米持孝秋氏に連れられて、 わざわざ海を越えてアメリカはテキサス、 オースティンで行われる世界最大の音楽コンベンションのひとつ、 South By Southwestまでのこのこと出かけていく。 営業成果は必ずしも芳しくなかったが、 音楽に人生を捧げた人間たちが世界中から集まるこの祭りにおいて、 ナカミネは間違いなく、 少年時代から恋をしてきたロックの神様に出会い、 多くのインスピレーションを得る。 メッカに巡礼したムスリムの如く、 ロックの女神さんから直接言葉を聞いたナカミネは、 明確なヴィジョンを持って、新たな活動を決意する。 またこの時期、ナカミネは、HR/HM系企画集団、 Above Da Worldのメンバーとなる。 この時期、ナカミネ、3年以上住んだ埼玉某所のHouse Juku-Shikiから、 大学時代を過ごしたお気に入りの街、横浜に引越し。 理由はやはり皆がいないと家賃が高いから(笑)
2007年6月 6月初頭、ナカミネは、即席メタルバンド「児玉鎮魂歌」にてヴォーカルを担当する。 6月後半、 新宿JAMにて、Above Da WorldのHR/HMイベント、「Straght Edge」を主催、 imari tonesも勿論ライヴ演奏を行う。 Metal Safari、Knights Of Round、アイ・ドント・ノウ、Clever Headsと共演。 メタルイベントの割に優しいステージを展開して賛否両論をくらう(笑)
2007年7月 Above Da World主催のギター速弾き決定戦"G1 Carnival"にて、 オープニングライヴを務める。渋谷PLUG。 SLEDGE、BEREAVED、Majellycaと共演。 テンション高くはっちゃけて好評を得る。 その後まもなく、 ナカミネは将来的な目標のために現状を変える必要性を感じ、 米持プロデューサーに、自分の足で歩く旨を伝え、 自主レーベルの運営などなど、乗り出すことを決意する。
2007年8月 某日、新宿JAMにてナカミネ一人によるアコースティック弾き語り。 さらに某日、北千住Crawfishにてナカミネ一人によるアコースティック弾き語り。 むしろバンドの時よりも内容が伝わってしまい困惑する。 政治的&諸般の事情により、いよいよ動きが取れなくなってきたため、 優秀だった馬場くん&はらっち体制に、 惜しくも別れを告げ(初のメンバー首切り)、 あっさりと新メンバー体制になる。 G&Vo: Tone、B: Hassy、Dr: Doctor Manzo 3人とも横浜在住のハマ・バンド(?)となる。
2007年9月 9月某日、ナカミネはレーベルの名前を冠したイベント、 Kitchen Knife Partyを新宿JAMにて開催、主催のみで演奏はせず、 その足でそのまま吉祥寺WARPに赴き、 ほぼ飛び入りで新メンバーでの初ライヴ演奏を行う。 同時期、プロモーション用途のビデオ作品の制作にとりかかる。
2007年10月 Winning Song、Iron Hammer、躁、のビデオが完成。 某日、新宿JAMにてアイ・ドント・ノウとライヴ。 限りなく成功だったような失敗だったような。 そうこうしてるうちに自主レーベルからのアルバムのリリースが決まる 英語サイトをオープンさせる。
2007年11月 某日、西荻窪FLATにてナカミネ弾き語り。 某日、Above Da Worldとの共同企画「Straight Edge 2」を渋谷PLUGにて開催。 Risk Hedge、Metal Safari、Devour、Clever Headsと共演。
2007年12月 某日、渋谷AUBEにてEmergenzaコンテストに参加。 某日、原宿カフェラティアにてナカミネ弾き語り。 MySpace等の各音楽サイトに本格的に進出開始。
2008年1月 なんだかこの頃より、 ナカミネ、自身の音楽の中に常にあった信仰というものに気付き、 それらをよりオープンに音楽に組み入れていく試みを始める。 ナカミネ、公式にクリスチャンになる。 自主レーベルKKRより、アルバム"Japanese Pop"発売。 そして次のアルバムのリハーサル開始。 クリスチャン的世界観をテーマにしたコンセプトアルバムの計画を始める。
2008年2月 某日、ナカミネ、G-1速弾きグランプリにて3位入賞を果たす。 某日、渋谷Gig Anticにて飛び入り的にライヴ。 主張、テーマ、パフォーマンス。 ひとまず納得のいくステージ。
2008年3月 コンセプトアルバム、仮タイトル"School Of Saviors"の制作開始。 アメリカはユタ州にて行われた、 Foursite Film Festivalにて、 "Karma Flower"のプロモーションビデオが、 Best Animation Awardを受賞する。 ナカミネはユタ州に出向いて、 "異教徒"であるところのユタ州の若者たちと 普通に友達になる。 某日、iTunes Storeでの楽曲販売を開始する。 某日、ToneとMarieによるポッドキャストが開始される。
2008年4月 某日、新宿ACIDにて企画ライヴ「Club Manzo」。 かなり盛況となる。 演奏の出来も上々。 コンセプトアルバムのレコーディング進む。
2008年5月 某日、新宿JAMにて 企画ライヴ"Faith, Loud, Heaven"を行う。 とてもハッピーな企画になり出来も上々。 同企画にはナカミネの妹Mizukiも出演し、 ナカミネはサポートでアコギを演奏する。 某日、"Synchronicity"の自主制作PVを作成。 某日、制作中のコンセプトアルバム"God Has No Name"または"School Of Saviors"(仮) からの楽曲のインターネット先行試聴を開始する。 コンセプトアルバムのレコーディング継続して作業中。
2008年6月 某日、新宿JAMにて、Above Da Worldの仲間とともに、 Straight Edge Vol.3 復讐の王道ハードロック、を企画、出演。 イベント的にも盛り上がり非常に良い企画となる。 演奏はオーディエンスはそれほど多くなかったものの、 抜群のサウンドで圧倒、なんだか地力を見せ付ける。 アルバムのレコーディング継続して作業中。 某日、ナカミネ、Avantasiaで来日していたサシャ・ピート氏に再会。 シンガーのアマンダ・サマーヴィル氏にも再会。 コンサートの招待枠で、楽屋にも招待されトビアス・サメットや ヨルン・ランデ、オリヴァー・ハートマンらと会ったりするという ちょっと自慢な体験をする。
2008年7月 某日、立川Heart Beatにて行われた、 ロックファッションショップGammaray Burst主催のイベントに出演。 「親子そろって見れる」をテーマに堅実な安心ステージを展開し、 そこそこ好評を博す。 それなりになんだか投票もいただいて、 8月の町田のお祭りにお呼ばれすることになる。 コンセプトアルバムのレコーディング継続中。
2008年8月 町田のお祭りで演奏する予定が、 悪天候により中止(泣) レコーディング継続中。
2008年9月 楽曲「Karma Flower」が、 UK Song Writing Contestで、 Semi Finalistを受賞する。 ファイナルまでいかなかったのでちょっと悔しいかも。 某日、約半年にわたって続いていた レコーディングがついに完成する。
2008年10月 バンドの活動や状況が変わってきたのに伴い、 1年あまりバンドをささえていただいたDoctor Manzo脱退。 何人かのドラマーとのセッションを経て、 はっしーと旧知であったジェイクが加入。 Vo/G: Tone, B: Hassy, Dr: Jake となる。
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